30歳の景色
世間から”大人”とみなされる年齢になって、しばらく経ち、30歳になった。
子どもだった私は学生になり、社会人になり、これは本当に運が良かったというか(紹介者となってくれた人達も含めて)人に恵まれたと思うが、幸いにも結婚して家庭を持った。
子どもの頃はそれは一般的で、当たり前のことだと思っていた。
ずっと健康で、高校に行って、大学に行って、就職し、適当な結婚相手と出会って結婚し、車を買い、30歳ともなれば子どもが2人くらいいるものだと思っていた。今となっては滑稽なことだが。
旧い記憶だが、なんならマイホームのイメージまで持っていたかもしれない。なぜなら、親世代の多くはマイホームを持っていたし、私自身も親の購入したマイホームで育ち、今も”実家”はそこにあるからだ。
そういった「王道の人生のレール」は、歩もうとすれば想像していたものとは違い、険しい。
他の人はわからないが、少なくとも私にとっては、「まじめに生きていれば誰もが自然にできる」というものではないように思う。
進学するのも、就職するのも、結婚するのも、恐らくは「普通」のことなのだけども、凡庸な私ではそれなりに大変なことで、主観で言えばそれなりに努力や労力を伴うものだった。
今この手にあるものも自分一人の力で得たものではなく、運の要素も多分にある。
これからもずっと健康であるとも限らない。
私の平凡な能力は変わらないので、恐らくこれからも何かがあるたびに労力を要するのだろう。
そして、私だけではなく、周りの30歳を見ていても 皆そうなのだ。
「普通」を掴みとるために、多くの努力や困難、そして決断を伴っている。
”皆”と言っても無論ながら世間全体や平均の話ではなく、少なくとも「自分の周りでは」という矮小な範囲に限っての話だが。
皆、自分の道を歩んでいく。自分の決断とともに。
とある友人は遠恋を経て結婚した後独立し、若くしてある臓器を患ったものの、それを克服して夫婦で起業して頑張っている。
とある友人は勉強して国家資格を得た後に、改めてかねてからの別の夢を志し始めた。
とある友人は結婚し、夫婦二人で貯めたお金で家も車も買い、一度出産に関する悲しい出来事を乗り越え、子ども2人と一緒に家族4人で暮らしている。
とある同期はかねてより学びたかったという知識と技術を追い求めて、今年弊社を辞めて海外へ旅立つ。
とある友人は。
とある友人は。
私は。
私はどうだろう。
30歳、結婚するまでは、こうした「周りの変化」に、ぽつんと取り残されているような感じがしていた。
結婚、起業、転職、昇進、出産、育児、マイホーム。
様々な友人が、様々な挑戦をして、様々な道を歩んでいく。
次々と。
その重大な決断が、決して「特別なことではない」かのように。
ごく「普通」であるかのように。
ともすれば灰色だったかもしれない私の青春を色鮮やかに彩った君たちは、ほんの数年前までは私と同じ、ごく普通の学生だった。
確かに彼らは、賢く、ユニークで、まじめで、育ちも良かった。裕福な家庭の子どもだったのだろうと、今になって思う。
今や父になり、母になり、夢を追いかけ、管理職になり、出世し、社長になり…。と、どんどん先に人生の駒を進めていってしまう。
君たちは既に、私の知っている”子どもの頃の君たち”から少し成長して、”大人”になってしまったのである。
彼らと友人であることのちょっとした誇らしさと、ほんの少しの寂しさが胸に残る。
いまでも、一緒に酒を飲めば君たちは陽気で快活な、あの時のままだ。
けれど、確実に状況は変わり、持ち物も、話題も年相応なものになってきている。
自分だけがずっと変わらなかった。
いや、職もある。住む場所も、収入も貯金も人並み程度にはあって、自活もできている。
ただ、彼らは能動的で、明確に意思決定をし、行動の先に結果を掴み取っている。
私は受動的であるとまでは言わないが、現況を許容し、ただなんとなく舵を取りながら流れのままに生きてきた。
果たして。
この生活をこの先何年、何十年も続けていく「退屈さ」、そう退屈さに、どれくらい私は順応していけるのだろうか。
「何もしない」という選択を、ずっと選び続けることができるのだろうか。
「何もしない選択」をし続けた数年後の自分に後悔はないだろうかと、はっきりとではなく、ただ漠然と自問しながら、また安穏とした朝が始まる。
そしてあっという間に、そして無為に時間が過ぎていくのを淡々と、日々を過ごしながら見送るのである。
「時間が経つのは早いなあ」と、どこか他人事のようにぺらりぺらりとめくられていくカレンダーを見つめながら。
30歳とは、転職するなら踏み出す好機の年齢で、女性なら結婚や出産を意識する年齢で。
しかし生涯独身と決めるにはまだ早すぎる年齢で。
だから、このまま現況維持をすべきなのか、それとも何かを変えるべきなのか迷い、その場で足踏みをし続けなければならない状況にもどかしさが生じる局面でもある。
30歳、結婚するまでに独身の私が見た景色は、何にもなりきれない、中途半端に進む者だけが見るものだっただろう。
それから良縁があり結婚が決まってからは、明確に、そしてきっちりと時間が流れ始めたと思う。
それは隣に伴侶がいて、将来についても相談できる、考えられるようになったからだろうとも。
これからも決断する時はまたやってくる。
そして永劫、続いていく。
姓も変わり、周りにいる人も職場も一新された。
ここで名乗る名前も呼ばれる名前も新しい姓のもので、まるで「別人の皮」を被って生活しているかのような錯覚を起こしている。
まもなく慣れてしまうのだろうが、しばし新鮮さを味わうことにしよう。
子どもの頃はそれは一般的で、当たり前のことだと思っていた。
ずっと健康で、高校に行って、大学に行って、就職し、適当な結婚相手と出会って結婚し、車を買い、30歳ともなれば子どもが2人くらいいるものだと思っていた。今となっては滑稽なことだが。
旧い記憶だが、なんならマイホームのイメージまで持っていたかもしれない。なぜなら、親世代の多くはマイホームを持っていたし、私自身も親の購入したマイホームで育ち、今も”実家”はそこにあるからだ。
そういった「王道の人生のレール」は、歩もうとすれば想像していたものとは違い、険しい。
他の人はわからないが、少なくとも私にとっては、「まじめに生きていれば誰もが自然にできる」というものではないように思う。
進学するのも、就職するのも、結婚するのも、恐らくは「普通」のことなのだけども、凡庸な私ではそれなりに大変なことで、主観で言えばそれなりに努力や労力を伴うものだった。
今この手にあるものも自分一人の力で得たものではなく、運の要素も多分にある。
これからもずっと健康であるとも限らない。
私の平凡な能力は変わらないので、恐らくこれからも何かがあるたびに労力を要するのだろう。
そして、私だけではなく、周りの30歳を見ていても 皆そうなのだ。
「普通」を掴みとるために、多くの努力や困難、そして決断を伴っている。
”皆”と言っても無論ながら世間全体や平均の話ではなく、少なくとも「自分の周りでは」という矮小な範囲に限っての話だが。
皆、自分の道を歩んでいく。自分の決断とともに。
とある友人は遠恋を経て結婚した後独立し、若くしてある臓器を患ったものの、それを克服して夫婦で起業して頑張っている。
とある友人は勉強して国家資格を得た後に、改めてかねてからの別の夢を志し始めた。
とある友人は結婚し、夫婦二人で貯めたお金で家も車も買い、一度出産に関する悲しい出来事を乗り越え、子ども2人と一緒に家族4人で暮らしている。
とある同期はかねてより学びたかったという知識と技術を追い求めて、今年弊社を辞めて海外へ旅立つ。
とある友人は。
とある友人は。
私は。
私はどうだろう。
30歳、結婚するまでは、こうした「周りの変化」に、ぽつんと取り残されているような感じがしていた。
結婚、起業、転職、昇進、出産、育児、マイホーム。
様々な友人が、様々な挑戦をして、様々な道を歩んでいく。
次々と。
その重大な決断が、決して「特別なことではない」かのように。
ごく「普通」であるかのように。
ともすれば灰色だったかもしれない私の青春を色鮮やかに彩った君たちは、ほんの数年前までは私と同じ、ごく普通の学生だった。
確かに彼らは、賢く、ユニークで、まじめで、育ちも良かった。裕福な家庭の子どもだったのだろうと、今になって思う。
今や父になり、母になり、夢を追いかけ、管理職になり、出世し、社長になり…。と、どんどん先に人生の駒を進めていってしまう。
君たちは既に、私の知っている”子どもの頃の君たち”から少し成長して、”大人”になってしまったのである。
彼らと友人であることのちょっとした誇らしさと、ほんの少しの寂しさが胸に残る。
いまでも、一緒に酒を飲めば君たちは陽気で快活な、あの時のままだ。
けれど、確実に状況は変わり、持ち物も、話題も年相応なものになってきている。
自分だけがずっと変わらなかった。
いや、職もある。住む場所も、収入も貯金も人並み程度にはあって、自活もできている。
ただ、彼らは能動的で、明確に意思決定をし、行動の先に結果を掴み取っている。
私は受動的であるとまでは言わないが、現況を許容し、ただなんとなく舵を取りながら流れのままに生きてきた。
果たして。
この生活をこの先何年、何十年も続けていく「退屈さ」、そう退屈さに、どれくらい私は順応していけるのだろうか。
「何もしない」という選択を、ずっと選び続けることができるのだろうか。
「何もしない選択」をし続けた数年後の自分に後悔はないだろうかと、はっきりとではなく、ただ漠然と自問しながら、また安穏とした朝が始まる。
そしてあっという間に、そして無為に時間が過ぎていくのを淡々と、日々を過ごしながら見送るのである。
「時間が経つのは早いなあ」と、どこか他人事のようにぺらりぺらりとめくられていくカレンダーを見つめながら。
30歳とは、転職するなら踏み出す好機の年齢で、女性なら結婚や出産を意識する年齢で。
しかし生涯独身と決めるにはまだ早すぎる年齢で。
だから、このまま現況維持をすべきなのか、それとも何かを変えるべきなのか迷い、その場で足踏みをし続けなければならない状況にもどかしさが生じる局面でもある。
30歳、結婚するまでに独身の私が見た景色は、何にもなりきれない、中途半端に進む者だけが見るものだっただろう。
それから良縁があり結婚が決まってからは、明確に、そしてきっちりと時間が流れ始めたと思う。
それは隣に伴侶がいて、将来についても相談できる、考えられるようになったからだろうとも。
これからも決断する時はまたやってくる。
そして永劫、続いていく。
姓も変わり、周りにいる人も職場も一新された。
ここで名乗る名前も呼ばれる名前も新しい姓のもので、まるで「別人の皮」を被って生活しているかのような錯覚を起こしている。
まもなく慣れてしまうのだろうが、しばし新鮮さを味わうことにしよう。
