婚活で”妥協”という違和感
ここ1年以上婚活という行動から足が遠のいておる私ですが、たまには婚活ネタでも投下せん。
将来の伴侶となり得る人を求める活動を”婚活”と言うのであれば、よく聞くのが「男は女性の容姿と年齢を重視し」、「女は男性の年収と職業を重視する」、という話です。なんと身も蓋もない話だろうか。
将来の伴侶となり得る人を求める活動を”婚活”と言うのであれば、よく聞くのが「男は女性の容姿と年齢を重視し」、「女は男性の年収と職業を重視する」、という話です。なんと身も蓋もない話だろうか。
まあ所望する”相手の条件”とやらに「20代」「美女」だったり、「医師(などの特定の職業)」「年収ン百万以上」だったりという条件を挙げて活動されてらっしゃる方が婚活男女には多い印象だが、この点はやはり婚活市場の特異性を感じる。
もちろん誰にでも大なり小なり「相手がこういう人だったらいいな」というビジョンがあるのは間違いがない。
性格が良い(合う)・趣味や価値観が合うことに加えて好みのタイプなら言うに及ばず、年収や資産額、学歴や教養がある相手なら将来の不安も軽減し更に魅力も増すことだろう。
(学歴、知識教養、知性、お金に関しては高ければ高いほど…というわけではなく、自分と同じくらいの人の方が合うのかもしれんが)
別にこの点は婚活に限らず、恋愛でだって友達を作る時だって一緒なのだ。
魅力的な人、尊敬できる人と仲良くしたい・お近づきになりたいと思うのはごく自然なことだと思う。
だがそれを「未知の相手にわざわざ言語化して要求する」という行為が婚活市場では顕著であるのが特異点、感じる違和感の正体だろうか。
一生付き合う友人を得ようとするのに「一緒にいて楽しくて容姿が良く、教養があってできれば大卒、趣味は料理で年収は500万以上あれば望ましい、身長は私とできれば同じくらい、私と趣味が合うノリのいい友人を所望します!身長と学歴はできればの条件でOKです!」とか言う人見たことないもんな。だが婚活だといる。わらわらいる。
「友人と伴侶は違うだろ」と思った方もいるだろう、しかし良し悪しはともかくその「違い」こそが通常の人間関係形成と婚活を隔てる決定的な差異なのだ。
「年齢〇歳以下」や「年収〇百万以上」「身長はこの範囲」という具体的な数字が伴っていたり、「共働き希望」「親との同居希望」「専業主婦になるのを許してくれる人」など、相手への要望が固定されているのがそれに該当する。
婚活”市場”と表現されるだけあって、まるでヒト(の条件)が価値として変換され、取引されているかのような…随分とドライな印象を受けるのだ。
とまあ数値化されているというのは逆に言うとそれをクリアしている層にとってはメリットでもあり、その良し悪しは個々人がそれぞれ追究していけばいいことで、婚活界のヤムチャである私が論評してもしゃーないですが。
所望されているのが20代の美女や年収600万のイケメンなら、彼らが決めれば良いことなのだ。
さて、こういった婚活市場の特異性を加味した上で情報を読み進めていくと、結婚相談員的な肩書きを持った自称プロによる”求める相手が見つからなくて悩んでいる”人たちに向けてのアドバイスが見つかることがある。
その中には含蓄あるものから「もっと条件を下げろ、妥協しろ、身の程を知らん奴が結婚などできると思うてか!」みたいなアドバイスも往々にして見つかる。
(そらまあプロとはいえ人間ですから、仕事とはいえ日々オッサン達が「20代の美女を紹介してくれ!」、女性らが「高年収イケメンで!」と口を揃えて要望を押しつけてきたら、一言そのように物申したくなるだろうことは想像に難くない)
婚活ブログなどを拝見していても、婚活男女が各々の希望を「妥協」する記述がみられる場合がある。
妥協。
妥協とは本来このような意味とのことだが、婚活においての妥協とは必ずしも相手と自分の話し合いで双方の着地点を探り合うことと同義にはならず、「自分の希望と現実の折り合いをつける」という意味で使われることがほとんどだろう。
対話は「彼・彼女」で行われるのではなく、「自分(理想)・自分(現実)」で行われるのだ。
それ自体…自分の許容範囲を広げて世界を広げること自体は別に問題ないというか好ましいとさえ思うが、その後の相手との態度や言動にそれが現れることにこそ最大の違和感を感じる。
「自分(理想)・自分(現実)」で行われた妥協の結論を、現実の「彼・彼女」のやり取りにまで持ちこんでしまう人が一定数いるのだ。
20代がいいなと思っていた希望年齢を30代に広げて、30代の女性と会う男性がいたとする。
これも所謂「妥協」ということになるのだろうが(これが正しい表現なのかは別としても)、しかし婚活市場に限って言えば、これはあくまで自分一人の勝手な都合なんですよね。
相手のためではなく、自分一人のためだけに行うこと。自分の価値観や嗜好に基づいた自分だけのルール。「自分(理想)・自分(現実)」で討論した着地点。
すなわち相手に関することであると同時に、その実 相手にとっては全く関係がない。
この男性に「本当は20代を探していたんだけど、なかなか会ってくれる人がいなくてね」と苦労話をされれば、自分の時間を彼との出会いに費やすためにやってきた30代の女性は少なからず不快な思いをするだろう。
ここをはき違えると、恐らく市場を徘徊する「婚活モンスター」になってしまうのではないか。
自らの都合で定めたルール、自分勝手な要望を「妥協」と名付けて相手にまで持ち込む行為は、ただただ「相手に」失礼だと思う。
しかし数多見る婚活男女の言動から察するに、気づいていない人も多いのではないかと思う。
実際に「俺は自分の望む条件を妥協しているんだから、せめてここは叶えてもらわなくっちゃ」「自分のステータスなら、相手のレベルはここまで望んでもいいはずだ!」みたいな自分基準の思い込みがあったりする人もいたりするわけだよ。
ブログで書いたような記憶があるが、「ボクは相手の顔にはこだわりません!その代わり、ボクの料理上手なお母さん並みに料理がうまくて、子どもが産めて、学歴が良くて、家事の出来ないボクの代わりに家事を全部やってくれる家事が得意な人で、共働き希望の女性がいいんです!顔はこだわらないですから!」とのたまっとった帝もおったな。
ごく自然にそのような思考をする男性がこの世に本当にいるということが、私の中では一つ勉強にはなったけれども。
彼の言動からは「顔にこだわらない懐の広い俺スゲェ」が透けて見えたが、それは彼の世界だけで機能するルール。
現実の人間のステータスはパラメータ化できないし、能力の和が全て同じ値であることもなく人間は不完全で不平等、何より相手(の姿勢や態度)によって人間の行動は変化する。環境も体調も変化する。
全てが彼中心の世界の住人になりたいと思うリアルの女性がこの日本にいるか、どうか。
もともと自分に異性の理想像があって、「理想は無理でも、可能な限りそれに近い条件の人を」と”妥協”して相手を探している人というのは、それが相手と話している時も言動や態度から透けて見えてしまう。
(余談だが、この「理想の相手像」が想像の産物ではなく元カレ・元カノ・パパン・ママン・昔好きだった人…のいずれかになっている人は気をつけた方がいいと思う。)
自分のルールを広げれば世界は広がるが、それだけでは何にもならない。
婚活とは一人では完結しない。”自分ルール”を押し付け、その運用を相手に負担させようと考えた時点で、自分一人だけの物語になってしまうのだ。
(なおそれとは別に、自分の希望や意見を相手に伝えたり、価値観を共有したり、相談をすることは重要だと思う)
結局のところ条件の譲歩などは未知の相手と会うまでの入り口を広げる役に立つ程度の施策なのだ。
理想が高い人を指して「あの人はもっと妥協すれば結婚できるだろうにね」という噂話もたまに耳にするが、それはまったくの誤りでもなければ正しくもないと思う。
個人的には、1から10、出会う前から墓場まで重要になるのは相手への思いやりだと思う、別に婚活に限ったことじゃなく全ての人間関係に言えることだけれど。
「本当は20代を探していたんだけど、」を、「今日は会うために来てくれてありがとう」とすれば彼の婚活はいずれ実る。
あくまで私個人の感想になるが、希望する条件を引き下げて妥協するとか、できるだけ好条件の相手を見つけて色々やってもらえるか探るとかそういうことではなく、
その求める若さや収入などの可変要因がなくなった時にこそ助け合うことを考えられるか。
という方が遥かに重要であると思う。数十年のスパンで見るとね。
そしてそれは到底数字だけ羅列されたプロフィールを見てもわからない。
思いやりは数値化できないし、話してみなければ、心に触れてみなければその片鱗を感じることすら叶わない。
そういった相手と出会うのは、単純に相手に年収や若さがある相手を探して会うことよりさらに難しく、稀少なことなのだろうね。
「妥協」が婚活を阻害するかどうかは結局その人次第。
一つ一つのご縁を大事にしたいものです。
もちろん誰にでも大なり小なり「相手がこういう人だったらいいな」というビジョンがあるのは間違いがない。
性格が良い(合う)・趣味や価値観が合うことに加えて好みのタイプなら言うに及ばず、年収や資産額、学歴や教養がある相手なら将来の不安も軽減し更に魅力も増すことだろう。
(学歴、知識教養、知性、お金に関しては高ければ高いほど…というわけではなく、自分と同じくらいの人の方が合うのかもしれんが)
別にこの点は婚活に限らず、恋愛でだって友達を作る時だって一緒なのだ。
魅力的な人、尊敬できる人と仲良くしたい・お近づきになりたいと思うのはごく自然なことだと思う。
だがそれを「未知の相手にわざわざ言語化して要求する」という行為が婚活市場では顕著であるのが特異点、感じる違和感の正体だろうか。
一生付き合う友人を得ようとするのに「一緒にいて楽しくて容姿が良く、教養があってできれば大卒、趣味は料理で年収は500万以上あれば望ましい、身長は私とできれば同じくらい、私と趣味が合うノリのいい友人を所望します!身長と学歴はできればの条件でOKです!」とか言う人見たことないもんな。だが婚活だといる。わらわらいる。
「友人と伴侶は違うだろ」と思った方もいるだろう、しかし良し悪しはともかくその「違い」こそが通常の人間関係形成と婚活を隔てる決定的な差異なのだ。
「年齢〇歳以下」や「年収〇百万以上」「身長はこの範囲」という具体的な数字が伴っていたり、「共働き希望」「親との同居希望」「専業主婦になるのを許してくれる人」など、相手への要望が固定されているのがそれに該当する。
婚活”市場”と表現されるだけあって、まるでヒト(の条件)が価値として変換され、取引されているかのような…随分とドライな印象を受けるのだ。
とまあ数値化されているというのは逆に言うとそれをクリアしている層にとってはメリットでもあり、その良し悪しは個々人がそれぞれ追究していけばいいことで、婚活界のヤムチャである私が論評してもしゃーないですが。
所望されているのが20代の美女や年収600万のイケメンなら、彼らが決めれば良いことなのだ。
さて、こういった婚活市場の特異性を加味した上で情報を読み進めていくと、結婚相談員的な肩書きを持った自称プロによる”求める相手が見つからなくて悩んでいる”人たちに向けてのアドバイスが見つかることがある。
その中には含蓄あるものから「もっと条件を下げろ、妥協しろ、身の程を知らん奴が結婚などできると思うてか!」みたいなアドバイスも往々にして見つかる。
(そらまあプロとはいえ人間ですから、仕事とはいえ日々オッサン達が「20代の美女を紹介してくれ!」、女性らが「高年収イケメンで!」と口を揃えて要望を押しつけてきたら、一言そのように物申したくなるだろうことは想像に難くない)
婚活ブログなどを拝見していても、婚活男女が各々の希望を「妥協」する記述がみられる場合がある。
妥協。
引用:コトバンク妥協:対立した事柄について、双方が譲り合って一致点を見いだし、おだやかに解決すること。
妥協とは本来このような意味とのことだが、婚活においての妥協とは必ずしも相手と自分の話し合いで双方の着地点を探り合うことと同義にはならず、「自分の希望と現実の折り合いをつける」という意味で使われることがほとんどだろう。
対話は「彼・彼女」で行われるのではなく、「自分(理想)・自分(現実)」で行われるのだ。
それ自体…自分の許容範囲を広げて世界を広げること自体は別に問題ないというか好ましいとさえ思うが、その後の相手との態度や言動にそれが現れることにこそ最大の違和感を感じる。
「自分(理想)・自分(現実)」で行われた妥協の結論を、現実の「彼・彼女」のやり取りにまで持ちこんでしまう人が一定数いるのだ。
20代がいいなと思っていた希望年齢を30代に広げて、30代の女性と会う男性がいたとする。
これも所謂「妥協」ということになるのだろうが(これが正しい表現なのかは別としても)、しかし婚活市場に限って言えば、これはあくまで自分一人の勝手な都合なんですよね。
相手のためではなく、自分一人のためだけに行うこと。自分の価値観や嗜好に基づいた自分だけのルール。「自分(理想)・自分(現実)」で討論した着地点。
すなわち相手に関することであると同時に、その実 相手にとっては全く関係がない。
この男性に「本当は20代を探していたんだけど、なかなか会ってくれる人がいなくてね」と苦労話をされれば、自分の時間を彼との出会いに費やすためにやってきた30代の女性は少なからず不快な思いをするだろう。
ここをはき違えると、恐らく市場を徘徊する「婚活モンスター」になってしまうのではないか。
自らの都合で定めたルール、自分勝手な要望を「妥協」と名付けて相手にまで持ち込む行為は、ただただ「相手に」失礼だと思う。
しかし数多見る婚活男女の言動から察するに、気づいていない人も多いのではないかと思う。
実際に「俺は自分の望む条件を妥協しているんだから、せめてここは叶えてもらわなくっちゃ」「自分のステータスなら、相手のレベルはここまで望んでもいいはずだ!」みたいな自分基準の思い込みがあったりする人もいたりするわけだよ。
ブログで書いたような記憶があるが、「ボクは相手の顔にはこだわりません!その代わり、ボクの料理上手なお母さん並みに料理がうまくて、子どもが産めて、学歴が良くて、家事の出来ないボクの代わりに家事を全部やってくれる家事が得意な人で、共働き希望の女性がいいんです!顔はこだわらないですから!」とのたまっとった帝もおったな。
ごく自然にそのような思考をする男性がこの世に本当にいるということが、私の中では一つ勉強にはなったけれども。
彼の言動からは「顔にこだわらない懐の広い俺スゲェ」が透けて見えたが、それは彼の世界だけで機能するルール。
現実の人間のステータスはパラメータ化できないし、能力の和が全て同じ値であることもなく人間は不完全で不平等、何より相手(の姿勢や態度)によって人間の行動は変化する。環境も体調も変化する。
全てが彼中心の世界の住人になりたいと思うリアルの女性がこの日本にいるか、どうか。
もともと自分に異性の理想像があって、「理想は無理でも、可能な限りそれに近い条件の人を」と”妥協”して相手を探している人というのは、それが相手と話している時も言動や態度から透けて見えてしまう。
(余談だが、この「理想の相手像」が想像の産物ではなく元カレ・元カノ・パパン・ママン・昔好きだった人…のいずれかになっている人は気をつけた方がいいと思う。)
自分のルールを広げれば世界は広がるが、それだけでは何にもならない。
婚活とは一人では完結しない。”自分ルール”を押し付け、その運用を相手に負担させようと考えた時点で、自分一人だけの物語になってしまうのだ。
(なおそれとは別に、自分の希望や意見を相手に伝えたり、価値観を共有したり、相談をすることは重要だと思う)
結局のところ条件の譲歩などは未知の相手と会うまでの入り口を広げる役に立つ程度の施策なのだ。
理想が高い人を指して「あの人はもっと妥協すれば結婚できるだろうにね」という噂話もたまに耳にするが、それはまったくの誤りでもなければ正しくもないと思う。
個人的には、1から10、出会う前から墓場まで重要になるのは相手への思いやりだと思う、別に婚活に限ったことじゃなく全ての人間関係に言えることだけれど。
「本当は20代を探していたんだけど、」を、「今日は会うために来てくれてありがとう」とすれば彼の婚活はいずれ実る。
あくまで私個人の感想になるが、希望する条件を引き下げて妥協するとか、できるだけ好条件の相手を見つけて色々やってもらえるか探るとかそういうことではなく、
その求める若さや収入などの可変要因がなくなった時にこそ助け合うことを考えられるか。
という方が遥かに重要であると思う。数十年のスパンで見るとね。
そしてそれは到底数字だけ羅列されたプロフィールを見てもわからない。
思いやりは数値化できないし、話してみなければ、心に触れてみなければその片鱗を感じることすら叶わない。
そういった相手と出会うのは、単純に相手に年収や若さがある相手を探して会うことよりさらに難しく、稀少なことなのだろうね。
「妥協」が婚活を阻害するかどうかは結局その人次第。
一つ一つのご縁を大事にしたいものです。
