当たり前のことは当たり前ではないよね
ふと「自分にとって当たり前のこと」って何だろう、と思いました。
自分の性格、価値観。
自分の健康。
自分の仕事や収入や資産。
自分の暮らし。
自分の住まい。
自分の育ち。
家族との関係。
家族の健康。
大事な人。
友達との関係。
友達の結婚や転居。
周りの評価、信用、態度。
孤独か否か。
幸せか否か。
裕福か否か。
パッと思いつくものを挙げましたが、これらの「私にとって当たり前のもの」とは、全て”可変”の要因なのです。
この文章をご覧の方にも、「絶対不変のもの」をお持ちの方は珍しいのではないでしょうか。
そもそも人生で究極の可変事由とは”生の終焉”ですしね。
ただ、これらのものは存在するのが当たり前すぎて、当たり前であるということに気づかない。
頭ではわかっていても、恐らく真の意味では理解していない。
では、それに気づく時は何かと言うと、思い起こしてみれば”変化”と”経験”です。
例えば、いま職場の環境や人間関係に恵まれていることは、過去の劣悪な職場環境にいた経験があるから理解している…つもり。
多くの場合はそれは喪失によって強く記憶に残るのだけれども、あるものは失っては手遅れであるし、あるものは新しく積み上げるしかない。多くは失ってしまっては同じものを取り戻すことができない。
経験したことはないけれど、
今飢えることなくご飯が食べることができることのありがたさは、飢餓を経験することによって理解する。
健康の大事さは、病気になって理解する。
経済的な豊かさは、資産を失って理解する。
家族や恋人や親友がかけがえのない存在であることは、失ってから気づくのであろうと思います。
ほぼ可変要因で人生が構成されていることを考えると、人は如何様にでも変わるのだろうと思います。
(当然悪い方にも変わりますし本人の意思ではどうにもならない事象も絡むので、「人は変われる!」などと意識高い発言をするつもりはありません)
名目上は私のものであっても、それは私だけがいても構築され得ないということ。
思い返してみればたくさんのものを周りの人からもらってきた、そしてもらい続けているのでしょう。
だから感謝が必要なのだ。
いつもでなくともいいけれど、たまには「当たり前のことが当たり前でなくなった時のシミュレーション」でもしてみるといいのかもしれません。
そうすると周りに感謝の言葉を伝えたくなったり、親孝行してもいいかなという気分になります。
自分にとって大事なものや、他の人は重視しているけど自分はそんなに重視していないんだな、ということも浮き彫りになってくる。
いつか失われると気づけばこそ、今ある家族やご縁を大事にしていきたいなと思いました。
…と、一応お金関連についてよく触れるブログなのでお金のことについても触れておくと、収入や資産が減った時のシミュレーションもたまにしておくと良いのでは、と思います。
失ってゼロになった、もしくは極端に減った時にどう立ち回っていくか。
すぐ職を探すのか、生活水準を引き下げて低コストな家計にする(というか”できる”)のか。
シミュレーションの段階で立ち行かなくなるのであれば、気づいていないだけで自分の生活や価値観がお金に振り回されている可能性も示唆されますよね。
私の場合は一度上げた生活水準を下げるのは至難の業だと考え、最初からそこそこ低コスト家計に慣れておくと良いのではないかと思って生活しています。
まあ、独身一人暮らしだから自分の好きなようにできて気楽、というのもありますが。
当たり前のことは当たり前ではないという当たり前の話でした。
お金の話で締める。
自分の健康。
自分の仕事や収入や資産。
自分の暮らし。
自分の住まい。
自分の育ち。
家族との関係。
家族の健康。
大事な人。
友達との関係。
友達の結婚や転居。
周りの評価、信用、態度。
孤独か否か。
幸せか否か。
裕福か否か。
パッと思いつくものを挙げましたが、これらの「私にとって当たり前のもの」とは、全て”可変”の要因なのです。
この文章をご覧の方にも、「絶対不変のもの」をお持ちの方は珍しいのではないでしょうか。
そもそも人生で究極の可変事由とは”生の終焉”ですしね。
ただ、これらのものは存在するのが当たり前すぎて、当たり前であるということに気づかない。
頭ではわかっていても、恐らく真の意味では理解していない。
では、それに気づく時は何かと言うと、思い起こしてみれば”変化”と”経験”です。
例えば、いま職場の環境や人間関係に恵まれていることは、過去の劣悪な職場環境にいた経験があるから理解している…つもり。
多くの場合はそれは喪失によって強く記憶に残るのだけれども、あるものは失っては手遅れであるし、あるものは新しく積み上げるしかない。多くは失ってしまっては同じものを取り戻すことができない。
経験したことはないけれど、
今飢えることなくご飯が食べることができることのありがたさは、飢餓を経験することによって理解する。
健康の大事さは、病気になって理解する。
経済的な豊かさは、資産を失って理解する。
家族や恋人や親友がかけがえのない存在であることは、失ってから気づくのであろうと思います。
ほぼ可変要因で人生が構成されていることを考えると、人は如何様にでも変わるのだろうと思います。
(当然悪い方にも変わりますし本人の意思ではどうにもならない事象も絡むので、「人は変われる!」などと意識高い発言をするつもりはありません)
名目上は私のものであっても、それは私だけがいても構築され得ないということ。
思い返してみればたくさんのものを周りの人からもらってきた、そしてもらい続けているのでしょう。
だから感謝が必要なのだ。
いつもでなくともいいけれど、たまには「当たり前のことが当たり前でなくなった時のシミュレーション」でもしてみるといいのかもしれません。
そうすると周りに感謝の言葉を伝えたくなったり、親孝行してもいいかなという気分になります。
自分にとって大事なものや、他の人は重視しているけど自分はそんなに重視していないんだな、ということも浮き彫りになってくる。
いつか失われると気づけばこそ、今ある家族やご縁を大事にしていきたいなと思いました。
…と、一応お金関連についてよく触れるブログなのでお金のことについても触れておくと、収入や資産が減った時のシミュレーションもたまにしておくと良いのでは、と思います。
失ってゼロになった、もしくは極端に減った時にどう立ち回っていくか。
すぐ職を探すのか、生活水準を引き下げて低コストな家計にする(というか”できる”)のか。
シミュレーションの段階で立ち行かなくなるのであれば、気づいていないだけで自分の生活や価値観がお金に振り回されている可能性も示唆されますよね。
私の場合は一度上げた生活水準を下げるのは至難の業だと考え、最初からそこそこ低コスト家計に慣れておくと良いのではないかと思って生活しています。
まあ、独身一人暮らしだから自分の好きなようにできて気楽、というのもありますが。
当たり前のことは当たり前ではないという当たり前の話でした。
お金の話で締める。
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